余秋雨の散文は「知者の散文」と、白樺に讃えられた。うちに「文化苦旅」と「山塞筆記」と「霜天話語」という三冊有って、「霜天話語」を読んでみた。やっぱり私は散文が好きだなあと思う。小説も嫌いじゃないんですけどね。その世界観を構築するまでの間の過程が寄る年波で面倒くさくなって来たのか、どっちかというと何か散文、エッセイを選んでしまう。
ああ、嫌いな「世界観」という言葉を使ってしまった)>o<(
でなんとこの人、王元化の奥さんの弟子なのだ。で王元化って誰かというと、胡風事件の本に出て来た文学者の人だ。迫害された人ね。読んでて何かどっかで聞いたことある名前だなと思ったんだ。
王元化の奥さんの張可という人が、戯劇学院で余秋雨の先生で、シェークスピアの研究者。余と一緒に「下放」していて、その時に教わった色々な思い出が書いてある。
でこの張可という女の人が、凄い魅力的に書いてあるのだ。これ、余秋雨は絶対、懸想していたと思いますよ。つまり女性として好きだった、という事だ。別に非難しているわけではない。男の子が女の先生に惚れるのは良く有る話だ。
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余の散文は、風呂敷が大きい。テーマが大きいという事だ。家族とは?師弟とは?名誉とは?海南島とは?みたいに広げた大きな風呂敷を上手く使って、大きくて沢山有る題材を包み込んで、しっかりした風呂敷包みにしている。
この「霜天話語」巻頭の、張可先生を書いた一篇に余秋雨の生い立ちのようなことが書いてあるけれど、かなり優秀な優等生だ。優秀なやつは若いときから優秀なんだなーと思う。そういう奴の友達も皆優秀な奴で、教わる先生も優秀で、仕事仲間も優秀で、旅先でふと知り合う世を捨てた隠者や流浪の漂白者も実はとんでもなく優秀な学者だったり、はたまた政客だったりする。
一篇一篇に大抵そういう凄い奴が出てくるので、読んでいて大変面白い。
優秀な奴の周りには私などにはとんと縁の無い様な優秀な奴が集まってくるのか、それとも実は私も優秀な奴らに会ってはいるのだが、こちらが凡人なので見る目が無くて知り合えないのか、向こうが私などには鼻も引っ掛けないので知り合えないのか、判らないが、どっちだとしても私がそれをどうこうできるわけではないので、私には関係が無い。
しかしこの余秋雨の文章は非常に上手く、天才的で有り、そういう意味では、こいつが凄い奴らに会って、人生や社会の秘密について面白い文章を書いてくれると、成る程、優秀な人々のコミュニティではこういうことになっているのだな、と私のような「賎民」でも判るので、有り難いことは有り難い。
(私がこのブログで使っている「賎民」は、入力システムの変換に出て来ないから、普通は差別用語なのだろうが、ここではニーチェの用語(の訳語)から取って使っているから、差別用語ではないのだが、まあ「一般人」と言い換えても良い。NMB48の名曲、「HA!」、で言うところの、「あなた、あなたそこを行く、あなた、一般人」、のあなたである一般人である。つまり「わたし」、山本彩(さやねえ)や渡邊美由紀(みるきー)のような、失恋したばかりの優秀な芸能人である「わたし」が、束の間の無聊を慰める、誰でも良い、どうでも良い、一般人の男性、の事である。)
現代社会は基本的に資本主義(社会主義国でも基本的にそうだ)なので、優秀な人も、一般人向けの商品たるこの様な本を書いて、ご飯を食べて行かねばならない。優秀な人にとっては余り良い時代ではないのかもしれない。優秀な人は基本的に優秀な人のコミュニティ(上の地下鉄広告に有る、「圏子」という中国語が、ちょうどそういうコミュニティ、という意味だ)の中で生活したいものだ。一般人たちと交わりたくない。
ただ余秋雨は、政府高官も沢山勤めているので食べるには困らないし、政府高官として一般人にあれこれ指図をし支配するのが、伝統的中国社会で一番の名誉であり、男子の本懐だ。だから別にこんな本を書く必要はさらさら無い。従い余秋雨のこれらの文章は、多分彼のどうしても書きたい、書かずに居られない魂の発露だ。余秋雨にとっては、これらを書く事が生きる事で、沢山の名誉教授や政府高官の方が、生命活動を維持するための方便なのかも知れない。
優秀な人はこういう面でも優秀なんだなー(  ̄▽ ̄)
さて次はSNH48の選抜総選挙の事とかを書こうっと。(つまり優秀な秋元Pにまんまとお金を召し上げられる賎民の話)
t"chichi"saito@お盆休み