2014年6月28日土曜日

あいつ、本当にはかせか?ひろしじゃねえのか?(  ̄▽ ̄)

遠藤憲一と松井玲奈のW主演の映画「gift」が、去る6月14日愛知県限定で公開され、初日舞台挨拶に行った。ちょうどSKE48の公演にも当たったので、生玲奈と映画と劇場公演と、割りと充実の名古屋遠征になった。
映画は、内容の紹介は下記URLを見てもらうことにして省くが、自主製作みたいな低予算の映画で、全編ほとんど遠藤と松井の掛け合いであるが、二人の旅の過程で謎解きとともにそれぞれの人生が明らかになっていき、心が触れ合うというもので、私はれなさえ見られれば映画は詰まらなくても別に良かったのだが、まあ非常に面白かった。7月12日から全国公開も決まったので、是非観て下さい。

http://www.mmj-pro.co.jp/gift/

遠藤憲一というひとは、あちこちで良く見るが、私は名前をはじめて知ったのだが、れなを「天才はだ」の「良い女優になる」と評する辺り、なかなかの目利きだ?因みにれなは女優志望で、既に名テレのドラマや、NHK名古屋のドラマに出ているが、今回が映画は初出演、初主演だ。




さてニーチェの思想で広く一般に受け容れられ難い部分として、音楽と舞踏即ちディオニュソス的、文学と美術即ちアポロ的との対立軸が代表的ではないか。※韻文はこれらの中間。

でわたしは、これに深い共感を覚えるのである。超わたしなりに理解するとこんな風( ̄∇ ̄*)ゞ;

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アポロ的精神はソクラテス、プラトン、アリストテレスに代表され、ユダヤ教=キリスト教に取り込まれ、西欧近代の精神となった。詰まり「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」と同じものだ。論理的、合理的な精神だ。

ディオニュソス的なものとは何か、実はわたしも良く分からないんだが(^o^)分からないのに共感するとはおかしいじゃないかと、突っ込まれそうだが、それその突っ込みが既にアポロ的だ。

ニーチェの言うディオニュソス的なものは生命力とかリビドー(こんな言葉まだ使う奴いるんか)等と説明されているが、私の解釈では「個人的なもの」、である。ニーチェ的文脈では、偉大さは個人に属するもので有り、「賎民」が何人集まって社会とかになっても偉大にはならない。だから、リンドン・ジョンソンが提唱した、「偉大な社会」など言うものは形容矛盾だ。

解説者や学者は、ニーチェはこの処女作で既に論理を超えて詩人の魂を垣間見せている、などと言うが、論理はアポロに属するもので、ディオニュソスはそのようなものには縛られないのだから、超えるもへちまも無いのである。

論理は何故有るかというと、他人をだまくらかすため、他人を支配するため、他人を説得するため、…その他、他人をどうこうするためにある。格好良く言えば、コミュニケーションをとるために有るので、だからマイケル・サンデルのような、舌先三寸で賎民どもをだまくらかしてお金を巻き上げる人たちには大量に必要となる。しかし、他者の存在、他者とのやり取りを前提にしていなければ、他者をだます必要が無いので、論理など要らないのである。

ディオニュソスは別名バッカスであり、酒の神だから、元々ほかのやつなどどうでも良く、酔っぱらっているので、尚更コミュニケーションなどという面倒臭いこどはしないのである。

まあだから、一種のコミュ障みたいなもんだ。コミュ障の神様。私の神様だ。それで、ニーチェがコミュ障、て、すげえ納得出来るよねw

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松井玲奈は、まだあまりメジャーでないので知られてはいないが、軽いコミュ障、詰まりかなりの人見知りと内気であった。それで当然のようにオタクである。彼女のアニメとアイドルの知識には、生半可では太刀打ち出来ない。彼女は敢えてそういう資質を前面に押し出しながら、芸能活動をしている。とわたしは解釈している。だから、女優として、優子みたいなのが大成するのか、れなみたいなのが成功するのか、実は非常に楽しみなのである。

これで、優子がアポロ的で、れながディオニュソス的だとか言うのなら上手く落ちがつくのだが、さすがに良くわからない(  ̄▽ ̄)

Chichi
2014.6.28

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